西田敏行さんの生い立ちについて調べてみたところ、
両親の恋愛事情によって養子となった複雑な経緯が浮かび上がりました。
今回はそんな西田敏行さんの波乱万丈な生い立ちについて紹介していきます!
西田敏行の生い立ちは複雑!
西田敏行さんの生い立ちは、両親のそれぞれの恋愛事情による複雑なものでした。
まず西田敏行さんには、実父と実母、
そして養子にいった先の養父と養母の2組の両親の存在がありました。
そんな西田敏行さんは、
実父の今井 泉さんと実母の紀惠さんの長男
として、1947年(昭和22年)11月4日に生まれました。
実父と実母の馴れ初め
西田敏行さんの生い立ちについて、まずは実父と実母の馴れ初めから紹介していきます。
実は、西田敏行さんの実父は西田敏行さんが生まれる以前に、
結婚歴や子供の存在がありました。
父親・今井 泉さんに関する情報↓
- 大阪府和泉市の出身
- 大阪貯金局へ就職していた
- 威風堂々としていて気配りができる人
- 裸踊りと歌が好き
- 4度結婚している(生涯において)
- 最初の結婚で子供が6人いた
- 再婚した2人の妻は病死している
今井 泉さんは最初の結婚相手とは駆け落ちをして東京に移り住み、
東京の為替貯金局に勤めていたそうです。
そうして6人の子宝にも恵まれた泉さんでしたが、
泉さんが36歳のときに最初の妻が他界してしまいます。
そして2度の再婚と死別を経たのち、
辞令によって福島県郡山市の為替貯金局に転勤となります。
その転勤先で出会ったのが、西田敏行さんの実母となる紀惠さん(旧姓:三瓶)でした。
2人が出会った当時、泉さんは52歳、紀惠さんは21歳でした。
この31歳差という親子ほども違う年齢差に、両家からは猛反対を受けたようですが、
2人はその反対を押し切って結婚したそうです。
そんなお二人の間に生まれた西田敏行さん。
(当時の西田敏行さんは「今井」姓。)
親子3人で、郡山の貯金局の官舎でとても幸せに暮らしていたそうです。
実父が他界する
今井家(父方)と三瓶家(母方)の反対を押し切って結婚した西田敏行さんの実父と実母でしたが、
西田敏行さんが3歳のとき、実父が病気によって他界してしまいます。
57歳(昭和26年)でした。
大黒柱を失った実母・紀惠さんは、夫の今井家を頼ることができなかったため、
郡山から東京蒲田に移り住んでいた実家の三瓶家に、幼い息子(西田敏行さん)を連れて向かいました。
実母が再婚する
夫を失った西田敏行さんの実母・紀惠さんはその後、
“ある男性”と再婚することになります。
その経緯としては、
生活の拠点を東京に移した紀惠さんは、幼い息子のために次のような行動に出ていました。
- 手に職をつけるため美容学校で学ぶ。
- 美容師となってパーマ屋を開店。
- 息子を女手ひとつで育て始める。
するとある時、紀惠さんに“よき相談相手”の男性が現れます。
紀惠さんはこの“よき相談相手”に次第に結婚を意識し始めるのですが、
このお相手の男性には、息子(西田敏行さん)と同じ年の男の子の存在がありました。
当時は“跡取り”の考え方があったため、紀惠さんは息子を連れての結婚に悩んでいました。
そこで紀惠さんが姉の美代さんに相談したところ、
当時5歳だった西田敏行さんを姉夫婦の養子にするということで話がつき、
紀惠さんはその男性との再婚に踏み切り、のちに女の子が生まれました。
叔母の養子になった西田敏行
実母の再婚のために、福島県郡山市の叔母夫婦の養子になった西田敏行さん。
一見、実母のわがままのようにも捉えられる決断ですが、
叔母には西田敏行さんを養子に迎え入れた別の理由がありました。
実は当時、叔母の美代さんは、生後7ヶ月だった実子を伝染病で亡くしていたのです。
そのため、美代さんのほうから「ぜひ、敏行さんを養子にもらいたい」と申し出たそうです。
そのため、養母となった叔母は西田敏行さんをとても神経質ではあったものの、
愛情いっぱいに育てました。
また、養父となった美代さんの夫・西田辰治さんは郡山市役所に勤めていましたが、
当時の生活は厳しく、家族は神社の社務所に住んでいたそうです。
(社務所…神社の事務処理や管理を行う場所)
そんなふうに西田家の生活は苦しくても、西田敏行さんの友達にはケーキでもてなすなど、
養母の美代さんは西田敏行さんにお金と愛情をかけて育てあげたということです。
まとめ
西田敏行さんの生い立ちについてお伝えしました。
実父と実母、そして、養父と養母の二組の両親の存在があった西田敏行さん。
それぞれの大人の事情によって養子になった西田敏行さんの生い立ちがわかりました。
以上、当ページをご覧いただきありがとうございました。